2014年11月27日木曜日

子規庵と書道博物館

今回は、東京の根岸にある子規庵と書道博物館を紹介します。

JR鶯谷駅北口から歩いて5分ほどの所に、狭い通りを隔てて子規庵と書道博物館が向かい合うように建っています。

子規庵は、近代俳句の革新者正岡子規(1867~1902)の旧宅で、晩年の8年間を闘病しながら過ごした所です。

子規は27歳の時にこの地へ転居し、29歳で脊椎カリエスと診断され、ほとんど寝たきりの生活を送りながら近代俳句や短歌の革新に努めます。

子規庵には、高浜虚子・伊藤左千夫・夏目漱石・森鴎外・与謝野鉄幹や「坂の上の雲」の主人公とも言える秋山真之、画家では浅井忠・中村不折などが集まり、句会や歌会、文学美術談義を行っていたそうです。

寝たきりの子規に、仲間たちが当時としては高価でめずらしいガラス戸を贈りました。居間からガラス戸を透して見える庭は、決して広いとは言えませんが、薬として植えた糸瓜(へちま)のシルエットの向うに、さまざまな形と色の草花が光を浴びて輝き、本当に美しい景色を創っています。


「首あげて折々見るや庭の萩」

「ガラス戸のくもり拭きへばあきらかに 寝ながら見ゆる山吹の花」

「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」         

                子規

不折作 子規居士之写生
明治42年









子規庵の斜め向かいに位置するのが書道博物館で、中村不折(1866~1943)が半生かけて蒐集した中国や日本の書道史における貴重な資料を展示しています。
元は不折の住居とアトリエのあった場所で、68歳(1933年)の時に建設した博物館の建物がそのまま残っています。

画家としての不折を知っている人も、書家としての不折を知る人は少ないかもしれません。でも不折の後半生は、ほとんど絵を売ることをせず、書家として生計を立てていました。当時の東京の看板の字は、ほとんど不折が書いたと言われるほど一世を風靡します。例えば、新宿中村屋や清酒の日本盛・真澄や神州一味噌のロゴは、今も使われている不折の作品です。






明治期の画家は、士族などの裕福な家庭の出や有力なパトロンを持つ者が多かった中、不折は貧しい子供時代を送り、難聴というハンディーを背負いながらも、自らの力で名声と富を得た画家です。その最初のきっかけを作ってくれた人が正岡子規でした。27歳で『小日本』新聞の編集長になった子規は、その頃ではめずらしい挿絵入りの新聞を企画します。そこで挿絵を描く画家を友人の浅井忠に頼み、紹介されたのが不折だったのです。不折はこの仕事に精力的に取り組み、ようやく生活が安定し世間に名が知られるようになります。


『日本』 新聞 明治36年4月19日 木版
巴里の下宿屋
『小日本』 新聞 明治27年3月7日 木版
水戸弘道館














昭和8年建築の書道博物館
中村不折が、子規たちに誘われて根岸に住み始めたのは明治32年(34歳)からで、最初の住まいは現在の書道博物館から歩いて数分の所(旧中根岸町)でした。そこに念願のアトリエ付き自宅を建てた時の祝いの席に、病を押して来た子規は、それまでの不折の境遇を思い涙したと書き残しています。

「住居 家 画室共立派に出来上がり光彩を放ち居候・・・況して五六年の交際に其の境遇を熟知し居る私は、この成功を見て覚えず涙を催し候。」
  ほととぎす 明治33年1月10日


*中村不折フランス留学時代の作品(1901~1905) 書道博物館蔵

不折はアカデミズムの巨匠ジャン=ポール・ローランスに学んだ数少ない日本人のひとりです









子規庵と書道博物館は、震災や戦争に加え、経済優先でめまぐるしく変化する東京で、明治の偉人の生活や生き方を偲ばせるとても貴重な所です。秋晴れの日の散策にお勧めです。

・子規庵:東京都台東区根岸2-5-11 (休刊日 月曜日)

・台東区立書道博物館:東京都台東区根岸2-10-4 
                        (休刊日 月曜日)
   企画展:中村不折 「僕の歩いた道」 開催中
        前期 2014年10月11日~12月21日
        後期 2015年1月4日~3月15日




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